「平成」とはなんだったのか
いよいよ、明日で「平成」が終わる。
昭和生まれの私にとっては二度目の元号変更だが、思えば平成という時代は色々なことが劇的に変わった時代だった。
テクノロジーによって人々の生活が大きく変わった時代だったと言えるのではないか。
平成が始まったのは1989年、この前後からネットワークやテクノロジに関わる生い立ちを追ってみる
平成前後のネット、サービスの歴史
1985年〜1987年頃・・・ASCII-NET、PC-VAN、NiftyServe等の商用パソコン通信サービスの開始(平成以前)
1992年・・・IIJが日本でインターネットサービスプロバイダ事業を開始
1998年・・・Googleがサービス開始
1999年・・・「2ちゃんねる」が開設される
2000年・・・Amazonが日本で書籍販売のサービス開始
2004年・・・Facebookがサービス開始
2005年・・・Youtubeがサービス開始
2006年・・・ニコニコ動画がサービス開始
2006年・・・Twitterがサービス開始
2011年・・・LINEがサービス開始
誰もが情報の発信者に
思えば、平成が始まった頃の日本ではインターネットを使えるのは大学や企業のごく一部に限られ、個人ユーザーは電話回線を使う「パソコン通信」がせいぜいだった。 そもそも、パソコンが一般家庭に普及したのはWindows95以降でそれ以前は一部の新しい物好きか技術好きの一部家庭にしかないものだった。
それが、パソコンやインターネットが普及することによって誰もが世界中の情報をいつでも知ることが出来るようになり、更に携帯電話やスマートフォンの普及により家でも外でも何処でもインターネットに繋がることが出来るようになった(時間と距離からの解放)
これまで、テレビや新聞、雑誌などで一方的に「情報を受け取る」側だった一般の人々がブログやSNSや動画サービス等を使っていつでも誰でも「情報を発信する」側になれるようになった。
昨今では、事件や事故などの現場映像などもテレビや新聞などのメディアが一般のTwitterやFacebook等の投稿を参照する場合すら有る。
そして、自らコンテンツを作り配信する人達が注目されるようになり、Youtuberがいつの間にか子供が憧れる職業になった。
かつては、我々はテレビや新聞から一方的に提供される情報を受け取るだけだったが、ネットワーク技術の発達により自分の意見や自分が持つ情報を発信できるようになった。 情報の送り手が爆発的に増えたことによって、今まで知り得なかった知識や情報が多くの人でやり取りされるようになり、その事により更に新しい考えや技術などが生まれることもあった。(集合知の誕生)
一方で、問題になるのがあまりにも多量なSNSの情報の中に、フェイクニュースやバイアスの入った意見などが入り込むことがあったり、種々の「炎上」案件なども散見されるようになった。
膨大すぎる情報の渦に埋もれているだけでは、気がついたら誤った情報に騙されていたり、マジョリティの意見に誘導されていたりするかもしれない。
かつてはメディアの送り手(ジャーナリズム)側が提供すべき情報が何か、高い知性や理性を求められていたが、今の時代はそれを信頼していてはダメで受け手側が如何に正しい情報を取捨選択するか、受け手側の高いリテラシーが求められるようになった
コンテンツがモノからサービスへ
平成初期の頃は「音楽を聴く」と言うことは「CDを買って聴く」ことだった。 テレビドラマやCMで有名になった楽曲はCDが飛ぶように売れ、ミリオンセラーが頻発した。
テレビを付ければいつもその曲が流れ、誰もが口ずさむ事が出来た。
2000年代にAppleがiTunes Music Storeを開始、国内でも様々なサービスが始まり「音楽はCDの板を買うのでは無く、聴きたい曲だけをネットで買う」と言う人も増え始めた。
実際、海外では音楽配信サービスの開始によってCDの売上が激減したらしい。
日本は例外的にパッケージ売上がまだ勢力を保っていたけど、ここ数年はApple muisc、AWA、Spotify等の様々な「月額固定聴き放題」サービスが開始され、これらを利用する人も徐々に増えてきた。
音楽配信サービスは徐々に伸びてきているが、音楽市場全体の落ち込みを補うほどでは無いようだ。
映画や、ドラマなどの動画もDVDやBlu-ray等のモノではなくAmazon prime videoやNetflix等の定額配信サービスが増えてきている。
尤も、それ以前にそれらの有料サービスさえも使用せず、Youtube等無料で観たり聴いたり出来るサービスで満足と言う層も居るらしい。
誰もが、音楽や映像のコンテンツを「好きな時に」「好きな作品を」「好きなだけ」楽しめるようになったのは良い時代になった。
ただ、これには功もあれば罪もある。
- マス(大衆)に訴える大ヒットが無くなった
かつてはテレビ等で有名になった「誰でも口ずさめる曲」「誰もが観たドラマ」というのがあったが、今は配信サービス等で「自分が聴きたい曲、観たい映像」だけで満足してしまうので「誰もが知っている」コンテンツが無くなってしまった。
ここ2〜3年のコンテンツで「誰もが知ってる」モノって何かあるんだろうか?
いや、「もうそう言う時代じゃない」のかもしれないが、少し寂しい気もする。
- コンテンツの生殺与奪が供給側に委ねられている
一見、好きな時に、好きなコンテンツが入手できるから良い、と思いがちだけど、「どんなコンテンツを配信するか」は供給側に決定権がある。
また、昨今話題になっている芸能人やミュージシャンの不祥事などで昨日まであったコンテンツが突然消えてしまうこともある。
CDやDVD、そして書籍などのオンライン配信が当たり前になってしまうと、「書店やCDショップで偶然見つけた意外なマイナー作品、マニアック作品との出会い」が無くなってしまう、と言うのも少し寂しい。
かつては、特別な目的が無くても書店やCDショップを見て意外なタイトルや、目を引くジャケット等で偶然出会った作品がとても良かった、と言ったようなこともあったが、オンラインが当たり前になりそれも減ってしまった。
そもそも書店やCDショップが今や激減しており、そう言った機会すら奪われようとしている。
これから書籍や音楽、映像などのコンテンツを制作する人がどうやって、自分のコンテンツを知ってもらうか、広められるか様々な工夫が求められる時代になったといえそう。
AIや高度な処理によるモノや仕事のあり方の変化
PC業界でずっとライターを続けている、山田祥平さんという方がいらっしゃる。
時に含蓄深く、時にトンデモな記事も書かれる方だが、多分私が中学生か高校生位の頃(おそらく25〜30年近く前)に彼が書いたPCの未来を描いた本を読んだことがある。
細かくは覚えていないが、こんなことを書いてあった
コンピュータはデータや文書などは処理できるが、画像や音声と行ったアナログな情報は膨大すぎてコンピュータで処理をするのは難しい。 こう言った人間が分かりやすい情報をパソコンで処理することは暫くは出来ないだろう。
今では、パソコンだけで無くスマートフォンでも顔や指紋の認証は出来るし、音声で動作するスマートスピーカーも当たり前になった。
以前には高度な処理として考えられていたことが、当たり前に誰もが使える当たり前の技術になった。
と、同時にAIやRPA(自動化処理)等で今まで人間が行っていた仕事や処理がITで置き換えられるようになっていく。
今後、人の仕事がどんどん置き換えられていった際に果たして、我々はどうすれば良いのか。 どんな仕事が生き残るのかも色々考えていかなければいけない。
10年後、君に仕事はあるのか?~藤原和博が教える「100万人に1人」の存在になるAI時代の働き方
「令和」の時代はどのように変わっていくのでしょうね。 よりよい時代に変わっていくことを願っています。