Re:RXJ Station

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ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破 -考-

遅ればせながらようやく見ることが出来た。
ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破。

映画版シリーズ2作目の感想でこんなこと言うのもアレだが、自分は過去のテレビ版エヴァ、そして前回の映画版2作についてはリアルタイムでは体験していない。

テレビ版放送当時はTX系の見られない宮城に居たので、その存在をあまり知らなかった。

「なんか凄いアニメをやっているらしい」

と言うのは当時の仙台のオタクどもにも知れ渡っていたが、その頃の自分にとってはテレビ版放映とほぼ同時期に公開された
攻殻機動隊 -Ghost in the shell-」に夢中だった。その頃はエヴァなんて何も知らなかった。

初めてエヴァを見たのは、就職活動のために関東に来たときだった。たまたま晩飯を食いながらつけたテレビでやっていたのが
「第弐拾四話 最後のシ者」
だった。なんだか分からないうちに、なんだか分からないキャラ(渚カヲル)が訳の分からないことをしゃべり始め、気がついたらなんだか分からない巨大ロボット(エヴァ)に握りつぶされていた。
晩飯を食う手が止まった、と言うか気持ち悪すぎてその日は怖くて眠れなかった。

その後のことはよく知らず、旧映画版も何となくその気持ち悪さで近寄れず、世の阿鼻叫喚を知りつつも何となく近寄ってはいけないものだと思っていた。
実際にテレビ版と旧作映画を見たのはかなり後になってからである。
だから自分には旧作の頃の時代性とか深い思慮等というものは殆ど持ち合わせていない。エヴァ初心者と言うわけではないが決して心酔しているわけでもない、どちらかと言えば第3者的に見ている。

前作「序」は細かい部分での改変があったものの全体としてはほぼテレビ版のプロットをなぞっていたので良くも悪くも裏切りがなかった。
今回の「破」については前作の予告の時点で相当変わることは分かっていた。

映画を見る前に関連サイトや他人の批評などは全く読まず、パンフレットも買わず、一切の情報を仕入れないでほぼ「素」の状態で見てみた。その上での感想である。


(以下ネタバレを含む部分があるので改行を入れます)


























(改行ここまで)
劇場で見終わった後の周囲の人たちの様子を見ると
「わっけわかんねー」
「あれ、なんなの?」
とか、困惑している人が大多数だった。劇場によっては拍手が起きたところもあったようだが私が行ったところでは何もなかった。むしろ動揺が広がっている感じでした。



ストーリー面での「ゼーレがなんの」とかセカンドインパクトがどうの」とか「融合して神になってうんたら」とかそういった要素は自分にとってはマクガフィンだと思っているので、そこに惑わされなければシナリオの構造としてそんなに複雑さはなかったように思う。



#きっと庵野の頭の中でも明確には整理されていないに違いないw



「破」で登場する惣流改め式波・アスカ・ラングレー
テレビ版ではアスカが入ることによってしばらくの間ギャグ的な要素が追加され中盤のストーリーの中核になっていたともいえる。ただ、テレビ版ではストーリーを展開することに精一杯で3人のチルドレン達の個々の繋がりまでは描き切れていなかったように思う



エヴァとはチルドレン達が「どうやったら自分を認めてもらえるか」を探し求める物語だと自分は思っている。



今回の「破」では、3人の対比が整理されそれぞれが分かりやすくなっていたように思う。


  • レイ・・・・自分の存在意義はゲンドウにさえ認められれば後は何も求めない→ゲンドウだけでなくシンジとの関わりが自分の存在意義だと認識し始めるように変化
  • アスカ・・・自分の力を誇示し無二の存在だと証明することだけが自分の存在意義だと思っている→他人のために動くことも悪くないと思い始めるように変化
  • シンジ・・・自分を捨てた父(ゲンドウ)や周りの人に認められたいが、他人との接触の仕方が分からない

レイ、アスカの変化に対してシンジは基本的には終盤まで変わらない。



他の人の感想とかblogを見てみると「シンジが明るくなった」、とか「こんなポジティブなのエヴァじゃない」とか言う意見もあるみたいだけど、他のメンツはともかくシンジは結局今回も前と同じシンジだったと思う。ポジティブなように見えるのは周りが変わっただけで、他人との能動的な関わりに意味を見いだせない、と言うシンジの本質は何も変わっていないように見えた。

最後のあのシーンまでは。

結局最終的にはシンジはレイを助けるために覚醒し、シンジとレイという極めて収束した「セカイ」に話を押し込めている。
結局アスカの存在もラストの状況を作り出すだけの「ダシ」に使われてしまっている。



そして私にはいまいち理解できなかったのが、今回の映画版で初登場となる新キャラ真希波・マリ・イラストリアス」の存在感
序盤から伍号機を乗り回したり、「極秘潜入」と言いつつ思いっきりシンジと接触してシンジのSDATに変化を与えたり、EVAの極秘「BEASTモード」を開示したり、終盤の使徒戦では逃げ出したシンジを戦いに引き戻す役割を担ったり、キーキャラクターであることは明らかだか、何となく使われ方が使い捨てっぽいと言うか、都合良く話を進めるための道化なんですよね。

これらが新キャラの「マリ」である必要がどこにあるのか?他のキャラじゃダメだったのか?そこが自分には意味が分からなかった。

まぁもしかしたらこの辺の疑問は次回作の「Q」で解決されるかもしれないけど。


そして最後の最後、スタッフロール後のアレ、カヲル君の「今度こそ君を幸せにしてみせるよ」という言葉。

やっぱり、と言うかそんな気はしていたんだけど、これは「一周回ってきたセカイ」なんでしょうね。
分かりやすく言うと

  1. 火の鳥 未来編」でマサトが無限の命を得て気の遠くなるような長い年月をかけて人類の再生を目撃したように、
  2. あるいは別の言い方をするとメイド・イン・ヘブンスタンド能力によって加速されて一周回ってきた新しい時代だったり

(余計分からんか)

映画そのものも「やり直し」だけど作品世界的にも「やり直し」なんでしょうね。







さて、シナリオについてはここまで。正直自分にはこういったことを表現するのは難しくて馴れてない。

自分がやはり気になったのは、映像、音声などの演出的な部分。

今回私が「破」のビジュアルを受けて感じ取ったこと、それは「昭和」
むろん、あからさまに劇中で使われている昭和時代の歌謡曲や、戦闘シーンなどで突然挿入される「つばさをください」とかの楽曲もあるのだが、それだけではない。

第3新東京市の機能性から見せる林立する同じ形状の建物の均質性、無機質さ、そしてCGを多用することによって幾何学的だったり、フラクタルだったりする使徒のデザイン。
それらがすべて「非現実的な現実感」を象徴している。

監督の庵野氏が強く影響を受けている、昭和時代の特撮映画や特撮番組と同じだ。


昔の特撮で使われるセットは極めてあり得ない極彩色だったり、意味があるのか無いのか分からない無意味な幾何学模様だったり、無駄に多量な計器類だったり、そういった「非現実感」があまりにもぶっ飛びすぎていて「あり得ないはずの嘘の映像」がフィルムを通すことで「何となくこういう世界があるんじゃないか」という錯覚を引き起こす。リアリティなんて欠片も存在しない。


エヴァも同じ手法で幾何学的な模様や均質感を敢えて強調している。まさに特撮と同じ手法。

また、シンジとレイ、ゲンドウをつなぐキーアイテムとして一気に役割が重要になったシンジのSDATプレーヤー。今時の若い人たちにDATとかカセットとか言っても通用しないかもしれないけど昔はああやってシーケンシャルなデバイスが当たり前だった。

映像や音楽で見える部分だけではない、映画全体を貫く雰囲気というかシナリオの流れについて何となく昭和的なものを感じていた。このモヤモヤした感覚がうまく説明できなかったのだが、映画を見終わって二日目、今日たまたま書店で読んだ「CONTINUE」最新刊の「ヱヴァンゲリヲン」特集を見て、一つ納得が出来た。

なんせ立ち読みだったので文章はうろ覚えだが、こんなことを書いてあったように思う。

エヴァがテレビ版、前回の映画版で、色んなところから資金を出してもらい協力してもらう「製作委員会」と言う体制を確立してしまったために、後の他のアニメも影響を受けて製作委員会方式をとることが多くなってしまった。
製作委員会では権利や利害が委員会の所属組織で分散してしまい「責任」が明確にならず、肝心のアニメ制作者が思うように意見を言えなくなってしまった。

庵野氏は自ら新しい会社「カラー」を興し、今回のヱヴァの映画は企画、製作、広告に至るまですべて「自家製」でやることにした。

自分たちで始めた「製作委員会」方式を自分たちで終わりにする。アニメを製作者の手に取り戻す。

つまりは、今回の映画はある意味壮大な「自主製作の同人映画」なのだ。そしてもう一つ。

前回の「序」の時もスタッフは制作時に極限まで完全燃焼して燃え尽きた、そして今回もやはり燃え尽きた。
この状態で次を考えることなど出来るかどうかは分からないが最後までやるしかない。

我々のアストロ魂がある限り立ち上がりますよ


なるほど、我が意を得たり。
つまり彼らは「一試合完全燃焼主義」のアストロ魂を体現しているんですね。

エヴァを貫く後先を考えない無謀さ、先が見えない不安があるけど歩き続けずにいられないその鬱屈した感覚はアストロ魂にあると理解しました。

アストロ球団 (第1巻)

アストロ球団 (第1巻)

監督の庵野が育った「昭和」の時代の感覚があり、その全てをこの映画にぶつけているからこそ、単なる映像、音響ではない
全体に流れる「昭和」を醸し出しているのだ。



冒頭で述べた「わっけわかんねー」と劇場で言っている人たちは、大抵が若い人たちだった。
彼らにはリアルに「昭和」を体感したことがないので理解できなかったのだ。

結局ヱヴァは「昭和」をこの2009年という時間に持ってきた映画だったのだ。







#と言う結論にしてみたがどうだろう?wwww