心の故郷、所沢・狭山ヶ丘へ・・・
おそらく、このエントリーはジモティー以外にはまったく共感できないエントリだと思うので、興味ない人は読まなくて結構です(^^;;
シルバーウィーク連休の最終日、ふと思い立って埼玉は所沢に向かってみた。
実は自分は4歳〜中学2年の頃まで所沢に住んでいた。父が転勤族だったこともあってあちこちを転々としていた自分。
今でこそ、「出身は新潟」と言ってはいますが、単に両親が新潟に家を建てて、結果実家がそこになったと言うだけの話で、正直なところ新潟に住んでいたのはほんの何年もない。
自分としては、小学生、中学生の精神的にも肉体的にも成長した多感な年頃を長く過ごした所沢、それも狭山ヶ丘が自分にとっては心の故郷なのだ。
故郷と言っても、当時は団地住まいだったので、戻ってきても別に迎えてくれる家があるわけではないし、当時の友人知人もおそらく殆ど残っていないんだろう。そうであっても、やはりここは自分にとっては故郷なのだ。
就職して再び関東に戻ってくることになったが、時々自分の過去を思い出すためにこの所沢は狭山ヶ丘を2〜3年に1回は訪れるようにしている。特に何の用事もないわけだが・・・
所沢は比較的大きな市ではあるけど、自分が住んでいた狭山ヶ丘はそんな所沢市の中でも隅っこの方の小さな地域。
まぁ一応狭山茶のが名産としてはあるけど、そんなに有名じゃないよね。
幼少の頃、生活の殆どはこの狭山ヶ丘で過ごしていた。小さい頃の自分にとっては、この狭山ヶ丘が自分にとっての世界の全てだった。
時々親と一緒に車や電車で遠出することはあったが、自分にとってはそれはまったく別世界であり、自分の住んでいる地域の延長だとは考えられなかった。
当時は広いと思っていた狭山ヶ丘の街も大人になって改めてみてみるととてつもなく狭い、小さな街だったと気づかされた。
子供の頃のスケール感というのは恐ろしい。
いつも、学校が終わると夜暗くなるまで外で遊んでいたものだった。
ファミコンが登場したのが自分が小学3年の頃なので、おそらく自分は「幼少期にテレビゲームの無かった最後の世代」なのだろう。
小さい頃の遊びと言えば、メンコにコマ、そして野球等だった。コマと言っても当然ベイブレードみたいなものではなく、自分でひもを巻いて自分の力で木や鉄のコマを回すというアレだ。
我々より下の世代はおそらくメンコやコマで遊んだことなんて無いんだろうな。
また、所沢と言えばあの「となりのトトロ」のモデルとなったとも言われるほど自然や雑木林が多かった。
夏になると夜に雑木林に入りカブトムシやクワガタを捕ったこともあった。今では当たり前のように「デパートで買う」という扱いになっているカブトムシやクワガタですが、私に言わせれば
「んなもん、自分で苦労して捕らずにデパートで買って何が楽しいねん!」
だ!
自分の子供の頃の思い出は全てこの街が知っている。
この街を去ってから20年が経ち、その頃とは違う店が、違う建物が建ち、そして雑木林や茶畑は多くが潰され造成されて宅地になってしまっていた。ただ、やはりその中にも当時の面影を残している部分もあり、以前の光景がフラッシュバックしてくる。
父の転勤の都合で、中学2年の時にこの街を去らねばならなくなった。
自分にとって世界の全てだったこの街を去ることは当時の自分には信じられな苦痛だった。当時の自分にとっては外国にでも行くかのような気分だった。今まで小中学校と何年も一緒だった友人と別れることが嫌で嫌でたまらなかった。
転校の直前、クラスのみんながささやかなお別れ会をしてくれた。
お別れ会の最後に、クラスの全員が海援隊の「贈る言葉」を唄ってくれた。
暮れなずむ町の 光と影の中
去りゆくあなたへ 贈る言葉
悲しみこらえて 微笑むよりも
涙かれるまで 泣くほうがいい
人は悲しみが 多いほど
人には優しく できるのだから
さよならだけでは さびしすぎるから
愛するあなたへ 贈る言葉
それまで我慢していた自分はこの歌を聴いた瞬間に大泣きしてしまった。
本当に自分にとっては心打たれる歌詞だった。と、同時にクラスメートの、友人の優しさがありがたかった。
#ちなみに自分は今でも「贈る言葉」の歌を聴くと当時のことを思い出して泣けます(^^;;
当時の自分は色んな意味でピュアだったし、世間の厳しさも悪さも何も知らないウブな少年だった。
でも、あの頃は遊ぶことも学ぶことも全てが一生懸命だった。
何に対しても全力だった。
今の自分はどうだろう?何かに諦めていないのか、達観してしまい物事を斜に見るようなことはしていないのか?
ここに来る度に、そんなことを考えてしまう。
自分を見つめ直すためにも、今後もことある度に狭山ヶ丘には訪れてみようと思う。
そう、ここが自分の心の故郷なのだから・・・